真木くるみのブログ

仙台で演劇をしている学生👩‍🎓

こどもがほしい?

「あなたは将来何人こどもがほしい?」

 

 女に生まれたら、きっと小学校に入る前に1度はこの質問をされたことがあると思います。いや、全員ではないかもしれませんが、少なくともわたしの周りではそうでした。わたしは確か、「2人」って答えていたと思います。

 

 わたしは赤ちゃんが好きなこどもでした。赤ちゃんの何もかもが可愛くてたまらなかったんです。幼い頃、母に「赤ちゃんはどうやったらできるの?」と聞いて「赤ちゃんは欲しいと思っているからできる」と言われたことがあるのですが、それを間に受けて毎日「こどもをわたしのお腹にください」と神様に祈っていました(5歳)。

 

 赤ちゃんの可愛さに違和感を覚えるようになったのは、中学生の終わりの頃か、高校生になってからだと思います。

 

 わたしは赤ちゃんが好きで、可愛いと思うけれど、思うけれど、果たしてなにが可愛いのか。ぷにぷにのほっぺたとか、小さな体とか、すぼめた口とか、何もかもが可愛いんです。わたしも可愛いと思うんです。でもなんで可愛いんでしょうか。わたしは「可愛い」と思う自分の感性は生物としてのプログラムで、それが血液中を浮遊しているだけのような気がして、自分の「可愛い」を信じられなくなりました。

 

 小さく弱い存在に対して「可愛い」という感情を抱くのは、「動物としての人間」にプログラムされたもので、わたしはただそのままに動いているだけなのではないだろうか。欲望とは所詮プログラムされたものに過ぎず、小さな存在に対する「庇護欲」だってわたし自身が作り出したものですらない。それなのにわたしはそれが自分の心から発祥したものであると信じて疑わずに15年くらい生きていたわけです。

 

 わたしは大概素直じゃないのですが、問題なのが自分に対しても素直じゃないことなんです。自分の感情に正直になることより、自分の行動が自分以外の何かによって決められていることが許せないんです。それが神でも大いなる何かでも、許せないんです。わたしはわたしでしかないのに、わたしを構成するパーツを許せないんです。

 

わたしはそんな面倒な女なので、ただ「こどもが欲しい」って思えない。前に、「お前がこどもを欲しいと思えないのは、人を本気で愛したことがないからだ」と言われたことがあります。

わたしが誰かを愛したとして、仮にこどもを欲しいと思ったとして、でもそれと生むかどうかは別の話じゃない?って思ったんです。

 

だってわたし、自分がなんで生きてるか分からないんです。

 

わたしはただの動物だし、子孫繁栄の役割を担っているのだろうし、こどもを産み育てることがわたしの生きる意味だと言われても特に不思議には思いません。

 

でもそれ、わたしじゃなくても良くないですか?わたしがわたしとして生きる理由にはなっていないんです。

わたしは「人間」を構成するパーツのひとつでしかなくて、動物としての役割はひとつしか持っていなくて、その程度の存在なのに「わたしの生きる意味」なんて考えること自体傲慢だと思うんです。

 

だからわたしという凡庸な動物は、ひとつのパーツとしてこの世に存在するんです。

 

じゃあ、そんなわたしから生まれたこどもは?

そんなわたしから生まれたこどもは、どんな意味を持って生きるんでしょうか。

 

わたしはわからないんです。答えられないんです。答えられないのに、こどもを生んでいいのか分からなくて怖いんです。

 

誰かを本気で愛して、こどもがほしくなったとして、わたしは生きる意味を教えてあげられないのに生んでもいいんですか?

 

こどもに「わたしはなんで生きてるの?」って聞かれた時に答えられないのに、生んでいいんですか?

 

わたしは周囲に愛されて育ちました。こどもの愛し方は親に教わっています。

 

愛があれば、意味がなくても幸せになれるんでしょうか。

生きる幸せも意味も、本当は自分で見つけなきゃならないんです。答えなんて存在しないから。でも、答えにすらならない答えでも、綺麗事でも、こどもの純真な「わたしはどうして生きてるの?」という問いに答えられる何かは持っていないといけない気がするのです。

本当はこどもが自分で意味を見つけなきゃいけないとしても、わたしはきっとその意味の踏み台にはならなきゃいけない気がするのです。

 

今のわたしは、こども以上でも以下でもありません。

だから、自分が女であることに日々恐怖して生きているんだなぁ、とは、おもいます。