真木くるみのブログ

仙台で演劇をしている学生👩‍🎓

すっぱいうめぼし

曽祖母のお葬式で手紙を読んだ。

 

「もう泣いちゃった!」

 

と、手紙で感動して涙が出たと、色んな人に褒めてもらった。でも、私は誰かを泣かせるために手紙を書いたんじゃなくて、ただ曽祖母に好きだと伝えるために書いてたの。

 

みんなが泣いたのは、私の手紙が良いからじゃなくて、みんなが曽祖母のことを大好きだったからじゃないかなぁ。

 

などと思いました。明日は四十九日。

バニラ

私だったら、もしもあなたの目が見えなくなっても耳が聞こえなくなっても喋れなくなっても両足がなくなっても両腕がなくなっても心臓が止まっても息が止まっても体が動かなくなっても、ずっとずっとあなたのことを大好きでいるのに、なんであなたはそんな私よりも、若くて可愛い女の子に気持ちが移るんでしょうね。目と耳と足と腕と心臓と呼吸を奪って、あなたが私以外見えなくなったとして、それで私を心の底から愛したとして、それは本当にあなたが「本心で私のことを好きだ」と言えるのでしょうかね。ブロマイドを持ってるアイドルとか、スーパーモデルとか、全番組録画するほど好きな大女優とか、街を歩く美少女とか、可愛い女子大生とか、CDを買うほど好きな女性歌手とか、その他何千人もいる女の子の中で、可愛くもないスタイルも良くない性格も良くないオシャレでもない料理も洗濯も下手で唯一誇れるところが「あなたを好き」というだけの、そんな私を、世界で一番可愛くて大好きだと信じて選んで欲しいな。死ぬまで。

フライドチキンワッフル

誰も傷つけたくないな、あのひとを殺したいな、人の愛が憎いな、愛されたから殺したいな、そんな自分が殺されたいな、わたしも他人も傷つかないで欲しいな、みんなみんな大好きだからみんなみんな幸せでいて欲しいな、わたしがいちばん幸せでいたいな、わたしなんていいからみんなが幸せであって欲しいな、あなたのために生きたいな、私のために生きたいな、あなたのために生きるなら死んでやる、わたしがわたしのために生きたら死ぬんですか、わたしのために生きないで、わたしはさっさと生まれて愛されて育って高校生で初めて彼氏を作って大学で2番目の彼氏と付き合って卒業して地元の会社の事務員に就職して3番目の恋人と結婚して寿退社して毎日彼のためにお料理を作って可愛い子どもを2人授かって月に一度おじいちゃんとおばあちゃんに会わせてあげるの、そんな人生を生きたらわたしは苦しくて死んでしまうよ、でも死んだら悲しむよね、誰にも悲しまないで欲しいな、だれもかれもみんな傷つけたいな傷つけたいな傷つけばいいのにな、幸せでいたいな、幸せでいて欲しいな、大嫌いだ、大好きだ、嘘なんてひとつも言ってない

マーブルチョコレート

作文も詩も俳句も、小学校の頃に賞を取っているけれど、それはやっぱりわたしのことばが凡庸だからなんです。凡庸なことばを使える子どもだったから賞が取れたんです。特別なことばも特別な感性も何も持たない子どもだったから、なんとなく書いた文章が好まれたんです。わたしは、生意気で言うことを聞かない子どもで、大人からも友達からも好かれるような子どもではなかったのに、いつもわたしのことばを大人は好みました。同級生は嫌いました。子どもの頃の話です。いまとなっては、いま何かを書けと言われて、同じことを書いたら当たり前です、むしろ書かなければ、もう人間ではないような扱いをされても仕方ない、そんなことばを書いていたんです。そんなことばを書いたから、「評価」されただけなんです。

 

今年ももう終わりですね。

みんなに会いたいなあ。

強いこと

 2020年になって、もうすぐひとつきが経ちます。

 わたしは2020年の目標を、「強くなること」としました。

 強いって、どういうことでしょうか。わたしはべつに、「強い」という言葉に綺麗でまっすぐな意味を持たせたいわけではありません。強さは優しさだとか、人を許すことだとか、そういう意味で思ってはいません。

 

 2019年の目標は「人とのつながりを増やし、演劇と学びに勤しむこと」でした。人とのつながりを増やす、というのが実は不得意で、相手と距離を取りがちでした。

「友達だと思っているのは自分だけかもしれない」

「笑ってくれているけど、本当はわたしのこと嫌いかもしれない」

「仲良くしたいんじゃなくて、ただ仲良くしてくれてるだけかもしれない」

 自分に自信がなく、そういうことばっかり考えてしまって。これ、人見知りっていうんですか?

 でも、そもそも、これって相当プライドが高い人間の考えることだな、って気づいたんです。「自分は相手のこと好きだけど、自分のこと嫌いな相手を好きでいるのは嫌だから、相手が自分のこと嫌いなら関わらないようにしよう」みたいな。どうして相手の好き嫌いで自分の感情まで変えてしまうんだろう。そこになにがあるんだろう。それ、自分の好きな人が、自分を好きじゃないと、ただそれが気にくわないだけじゃない?って思ってしまって。

 相手が無理して自分に愛想良くしてくれてるなら、それは相手の処世術です。むしろ敬意を払うべきじゃないかな、って思います。

「友達だと思ってるのは自分だけかもしれない、でも一緒にいてくれる」

「笑ってくれてるけど、本当はわたしのこと嫌いかもしれない。でも笑ってくれてる」

「仲良くしたいんじゃなくて、ただ仲良くしてくれてるだけかもしれない、でも仲良くしてくれてる」

そもそも、自分には自分の世界しかないんだから、自分が相手を友達だと思えば友達だし。わたしのこと嫌いなのに笑いかけてくれるなんて、社交的な人だと思うし。そもそも相手が自分と仲良くするのは「自分と仲良くしたいと思ってくれてるから」って前提が勘違い。でも、「なんとなく仲良くしてる」なんて有り得ないと思っているんです、わたし。

 だから、自分が相手と一緒に居たいから一緒にいる、が、私に合ってるな、って思ったんです。

 そうしたら、誰のことも怖くなくなりました。

 

 演劇と学びに勤しむ。去年は役者としては大きく分けて2回、出演しました。

 初心者だらけの舞台に経験者として一人だけ入るなんて初めての経験だったし、生まれて初めて一人芝居も経験しました。2回ともむせび泣く役です。「似合うね」って言われて新しい自分を開拓しました。そして、オペ。生まれて初めて照明のオペをやりました。音照の卓から俯瞰的にみた舞台は、役者も舞台も客席も全て一体となった、特等席でした。演劇における成長なんてここで多く語ってもチープになるだけだし、舞台で結果が出ないとなんの意味もないので特には書きませんが……。

 

 そんなこんなで、色々成長できたんです2019年。

 

 そして2020年、2019年を踏まえて立てた目標が「強くなる」。

 

 強い、っていうのは、「誰にでも勝つ」ことじゃなくて、「誰にも負けない」ことだと思います。

 誰かを負かすわけじゃなく、自分が優位に立とうとするわけでもなく、ただ自分が自分であること。誰かに自分を揺さぶられないこと、歪められないこと。ちゃんと他人を吸収できること。

 

そして、一番負けてはいけない相手は、過去の自分です。

 過去の自分より劣っていないこと、進化し続けること。 

 強さにおいて特筆すべきことなんて別段ありませんが、わたしはちゃんと強さの表象を持っているし、そこに追いつくことしかできません。

 

 2021年になるときに、わたしの描く強さってなんなのか、皆にわかってもらえたら、それがわたしの一年の結果なんです、たぶん。

 

 がんばるぞー!

鍋が食べたいなぁ

誰かがそばにいればいるほど、誰かが理解してくれればくれるほど、「ひとり」って深まるんじゃないかなぁ。

 

自分の傍に誰かの体温があって、冷たい空間がどこにもなくて、ぬるさに安堵してそれを当然だと錯覚して、寝て起きて、繰り返す。

「誰か」が近ければ近いほど。

ふと。

自分と「誰か」は違う人間だと。お互いの本質は永遠に見えないと、「誰か」と「自分」は永遠に一つになれないと、そんな当たり前のことに気づいた時。錯覚が壊れて。

 

ぼんやり、「一生ひとりかぁ…」。

 

私は不老不死の体を手に入れて、大好きな人と宇宙船に乗り込んで、宇宙空間で永遠に一緒に生きたい。だけど、ひとりで1000年生きるほど強くはない。どんなに明るい時間が楽しくても、夜がきっと長すぎる。

 

今日も寂しい。ずっと寂しい。優しい友達がいて、恋人がいて、家に帰れば美味しい食事があって、私は幸せだ。幸せだ。寂しい。贅沢だ。

 

誰かと鍋が食べたいなぁ。大食いな私がバカみたいに食べても引かない人と。

 

しゃぶしゃぶが好きです。

一番

この間、すっごくふわふわの、美味しいかき氷を食べました。口に入れた瞬間溶ける、甘くてやわらかい、氷ということを忘れてしまうようなかき氷。私の人生で一番美味しいかき氷だなと思いました。

 

でも、「私の人生で一番美味しいかき氷だ」と思った瞬間、幼い頃の夏の日を思い出しました。祖父母が私のためにわざわざ買ってくれたかき氷機に、かき氷用にわざわざ丸く固めてくれた氷を入れて。私が何回もおかわりするのに付き合って、かき氷を作ってくれました。

 

なんか、私が今「人生で一番美味しい」と思ったこのかき氷が、あの日「美味しい」と感じた思い出を裏切るような気がして。愛情が作ってくれたものの上に、一番を作ることは、私には無理だなぁと思いました。順位をつけることが無理なんです。全部大好き、それぞれ大好き、どれが上でどれが下とかない。

何回も研究を重ねて試作して作り上げた一品が恐ろしく美味しいこともわかってはいるけど、その美味しさに一番をつけられないんです。「一番」って言うたび自分が傷つくなと思うんです。だってふわふわのかき氷は間違いなく一番だし、小さい頃のジャリジャリのかき氷だって間違いなく一番だから。

 

でも、私が一番をもらうのは好き。「一番楽しい」とか「一番嬉しい」とか「一番好き」とか。私がめんどくさい奴ってだけなんですけどね。

 

子どもの頃にもらった無償の愛情って、良くも悪くも永遠なんですよね。

なんか泣きそう。

 

今はまだ祖父母も生きてるし、なんなら曽祖母も元気だけど、この時間は永遠じゃないんだ。私が受けた愛情だけが永遠なんだ。だけど、その永遠は私の中で完結するものなんだ。

あの夏の日に戻りたいと思っても、本当に戻りたくなった頃にはきっと戻れないんだ。

今はまだ側にあってすぐに戻れるから平気なだけなんだ。

 

私の夏、まだ終わってないよーーーーー!!