真木くるみのブログ

仙台で演劇をしている学生👩‍🎓

成人しました

わたくし真木くるみ、このたび無事に成人式を終えることができました。

懐かしい友人に会って話して、中学時代に戻れる楽しい時間でした。

 

「成人おめでとう」

 

この「おめでとう」は、無事成人式という節目を迎えることができたことに対して、皆様言ってくださったんだろうなと私は思っております。この世に生まれてから成人式を迎えるまでの約20年間、大きな病気もせず大きな事故にも遭わず成長し続けられたこと、幸運と周りの人の助けがあったからに他なりません。

 

「おめでとう」

「おめでとうございます」

「成人おめでとう」

「成人おめでとうございます」

 

私思うんですが、「成人」ってなんでしょうか。辞書を引けば適切な言葉が出てくるとは思うのですが、「成人」の定義も「大人」の定義も本当は人によって違う、その人の価値観によるものではないでしょうか。辞書も辞書を作った人のそれによるもので、辞書を鵜呑みにしたり、他人が作ってくれた定義に頼ったりするのは、自分の成長や大人という概念に関しての責任を放棄することにもなるんじゃないかなと思うことが、私はたまーーーにあります。

 

人を受け入れられるのが大人。

器が大きいのが大人。

社交辞令を使いこなせるのが大人。

誰かを許せるのが大人。

我慢ができるのが大人。

自分を抑制して場の空気を読むのが大人。

 

大人って言われる人の特徴って、たくさんありますよね。でも、これって本当に大人なんでしょうか?

 

その人の本心とか、あわよくばの気持ちとか、小さな希望とか、ただ諦めただけだったりとか、諦めただけだったりとか、諦めただけだったりとか。

 

「大人になるということは、心が死ぬことです」

 

と、ある人がおっしゃったことがあります。

しっくりくる言葉だなぁとも思います。

 

じゃあ、私の心は死んだんでしょうか。

 

小さい頃、森に入るだけで木々の声が聞こえた感覚も、水面に映る空を見て別の世界を想像するトキメキも、海に入った時に知らないものを探す好奇心も。

私、殺してないと思う、まだ。生きてると思う、まだ。

 

ただ、小さい頃に比べると、見なくてはならないものがあまりにも増えすぎて、迷子になってしまったんじゃないかなと思います。

 

くすぶっているだけ。

そばにいるってわかってる。

見えてないだけ。

本当は気付いてる。

じゃあ、見つけたらいいのに。

自分に対して思います。

 

小さい頃怒られながら練習した、おもちゃを集めて箱に押し込む、「お片づけ」みたいな感じで。

あの時、おやつが食べたくて頑張って片付けたおもちゃは、保育園に寄付したんです。だってもう使わないから。

 

私のこの気持ちもそのうちいらなくなって、どこかにいってしまうかもしれない。

 

でもそれは「死んだ」んじゃなくて「捨てた」んじゃないでしょうか。

 

出会うもの全てが特別でキラキラしてたあの時間のあの感覚、二度と手に入らないかもしれないものなのに。忘れてしまうんですよね、人は忘れる生き物だから。忘れるから捨てられるんですよね。

 

「おめでとう」

「おめでとうございます」

「成人おめでとう」

「成人おめでとうございます」

 

まるで、社会に「大人になれ」って言われてるみたい。

私、いやだなぁ。