こどもがほしい?
「あなたは将来何人こどもがほしい?」
女に生まれたら、きっと小学校に入る前に1度はこの質問をされたことがあると思います。いや、全員ではないかもしれませんが、少なくともわたしの周りではそうでした。わたしは確か、「2人」って答えていたと思います。
わたしは赤ちゃんが好きなこどもでした。赤ちゃんの何もかもが可愛くてたまらなかったんです。幼い頃、母に「赤ちゃんはどうやったらできるの?」と聞いて「赤ちゃんは欲しいと思っているからできる」と言われたことがあるのですが、それを間に受けて毎日「こどもをわたしのお腹にください」と神様に祈っていました(5歳)。
赤ちゃんの可愛さに違和感を覚えるようになったのは、中学生の終わりの頃か、高校生になってからだと思います。
わたしは赤ちゃんが好きで、可愛いと思うけれど、思うけれど、果たしてなにが可愛いのか。ぷにぷにのほっぺたとか、小さな体とか、すぼめた口とか、何もかもが可愛いんです。わたしも可愛いと思うんです。でもなんで可愛いんでしょうか。わたしは「可愛い」と思う自分の感性は生物としてのプログラムで、それが血液中を浮遊しているだけのような気がして、自分の「可愛い」を信じられなくなりました。
小さく弱い存在に対して「可愛い」という感情を抱くのは、「動物としての人間」にプログラムされたもので、わたしはただそのままに動いているだけなのではないだろうか。欲望とは所詮プログラムされたものに過ぎず、小さな存在に対する「庇護欲」だってわたし自身が作り出したものですらない。それなのにわたしはそれが自分の心から発祥したものであると信じて疑わずに15年くらい生きていたわけです。
わたしは大概素直じゃないのですが、問題なのが自分に対しても素直じゃないことなんです。自分の感情に正直になることより、自分の行動が自分以外の何かによって決められていることが許せないんです。それが神でも大いなる何かでも、許せないんです。わたしはわたしでしかないのに、わたしを構成するパーツを許せないんです。
わたしはそんな面倒な女なので、ただ「こどもが欲しい」って思えない。前に、「お前がこどもを欲しいと思えないのは、人を本気で愛したことがないからだ」と言われたことがあります。
わたしが誰かを愛したとして、仮にこどもを欲しいと思ったとして、でもそれと生むかどうかは別の話じゃない?って思ったんです。
だってわたし、自分がなんで生きてるか分からないんです。
わたしはただの動物だし、子孫繁栄の役割を担っているのだろうし、こどもを産み育てることがわたしの生きる意味だと言われても特に不思議には思いません。
でもそれ、わたしじゃなくても良くないですか?わたしがわたしとして生きる理由にはなっていないんです。
わたしは「人間」を構成するパーツのひとつでしかなくて、動物としての役割はひとつしか持っていなくて、その程度の存在なのに「わたしの生きる意味」なんて考えること自体傲慢だと思うんです。
だからわたしという凡庸な動物は、ひとつのパーツとしてこの世に存在するんです。
じゃあ、そんなわたしから生まれたこどもは?
そんなわたしから生まれたこどもは、どんな意味を持って生きるんでしょうか。
わたしはわからないんです。答えられないんです。答えられないのに、こどもを生んでいいのか分からなくて怖いんです。
誰かを本気で愛して、こどもがほしくなったとして、わたしは生きる意味を教えてあげられないのに生んでもいいんですか?
こどもに「わたしはなんで生きてるの?」って聞かれた時に答えられないのに、生んでいいんですか?
わたしは周囲に愛されて育ちました。こどもの愛し方は親に教わっています。
愛があれば、意味がなくても幸せになれるんでしょうか。
生きる幸せも意味も、本当は自分で見つけなきゃならないんです。答えなんて存在しないから。でも、答えにすらならない答えでも、綺麗事でも、こどもの純真な「わたしはどうして生きてるの?」という問いに答えられる何かは持っていないといけない気がするのです。
本当はこどもが自分で意味を見つけなきゃいけないとしても、わたしはきっとその意味の踏み台にはならなきゃいけない気がするのです。
今のわたしは、こども以上でも以下でもありません。
だから、自分が女であることに日々恐怖して生きているんだなぁ、とは、おもいます。
感想というか、なんでもない話です。
燃え盛る火を見ました。
船のような藁のかたまりを徐々に侵食していく、そのさまは生き物のようでした。
火は下から上へ体をくねらせながら上り、思いっきり背伸びをしたところで体を黒い煙に変えます。火はとても大きく圧倒的な存在でしたが、よく見ると小さな糸というか、生き物でいうとミミズみたいな、そんな小さな生き物が密集してふくれあがって大きく見える、私にはそんな風に見えました。イワシの群れを思い出しました。
ミミズは藁と藁の間に潜り込み、船を内側からも食いやぶっていきました。人のいる方に火が体を伸ばしすぎると、係の人が水を火にかけ、火の勢いを弱めようとします。しかし水を浴びた火は係の人とは反対の方向により勢いを増して進みます。それは私が人生で何度も出会った光景でした。強者が弱者を攻撃し、弱者はまた自分より弱いものを攻撃する、よく見る連鎖。
火は生き物ではありません。
ですが、酸素を貪り船を腹におさめていくあの姿、高くのぼり時には弾けて他者を圧倒するあの姿、あれを生き物と呼ばずしてなんと呼ぶのか、私にはわかりませんでした。
わかりませんでした。
1番強い生き物って、本当はなんなんでしょう。
まぁ、ただの、火を見た感想なんですけど。感想にも満たないような。
最近色んなこと考えてて、文字に起こしたい気持ちはあるんですけど、文字に起こしてネットに載せて良いようなことを考えていないんですよね。
わたし女子大生なので、大学の友達と下品な話ばかりしているんですけど、どの話も下品でくだらなくて少しだけ切ないなぁって思います。
突飛ですが、火とか水とか、当たり前に生きるために存在するもの、人間の感情に置き換えたら恋とか愛とかそんな類な気がするのです。繁栄のために必要なものではなく、ただ生きるために必要なもの。ヒトは道具をつくる生き物ですが、この感情もある種の道具だと思うんです。
火と水、どっちが恋でどっちが愛でしょうか。
「大好き」と「愛してる」の違いってなんなんでしょう、結局自分で自分の感情をカテゴライズして名前をつけているだけだし、その感情は飼い慣らした途端に違うものに姿を変えてしまうんじゃないかなって思うんです。
水があるから火は危険じゃなくなるかと言われたらそんなわけないし、水は火を殺せるから優しい存在だってわけでもないし、火より水が危険かと言われたらそれも違うし、恋と愛のどっちが強くてどっちが弱くてどっちが危険かはわからないんですよね、どっちも内側からわたしの体を食い荒らす強大な生き物で、わたしはそれに抗えないし、かといってわたしが飼いならされてしまうわけにはいかないし、でも飼い慣らした途端それは名前を変えてしまう。でもその感情はわたしにとって水とか火とかと同じように当たり前なもので、常につきまとってくるものです。
なんて。
帰り道
わたしはスタジオを出たら、駅まで歩いて、駅から駅まで電車に乗って、駅から自転車に乗って家に帰ります。
わたし、自転車に乗っている間が怖いんです。
転ぶかもしれない、とかそういうことではなくて。確かにわたしは高校生まで自転車にうまく乗れなかったけど、運動とか苦手だけど。でもそういうことが理由じゃないんです。
なんか、後ろに誰か乗ってる気がする。
何回も後ろを見たし、背中になんの感覚もないことは確かめたし、誰の体温も感じないのに。
一回だけ、見間違いをしたことがあるんです。
建物沿いに自転車を走らせた時、建物の窓から溢れる光がわたしの影を作りました。窓ガラスの向こうに何か貼り紙がしてあって、その貼り紙の影が偶然わたしの自転車の後ろに重なったんです。わたしはそれを人影だと勘違いしたんです。一瞬でした。驚いて振り返って、すぐに正体も知って、誰もいない、わたししかいないって理解しました。
でも、その時からずっと、後ろに誰か乗ってる気がする。同じ道を通ると、同じように影ができて、わたしは後ろに誰かいると錯覚してしまう。あの貼り紙はとっくになくなってるし、本当は影なんてできてないのに。
本当は誰もいないのに、後ろにいる誰かを振り切るようにわたしは思いっきり自転車を走らせるんです。
いっそ誰かが教えてくれたらいいのに。
「あなたの後ろには誰もいないよ」って。
そしたらこの夢も覚めるのに。
自分で作った自分の影に怯えて、一瞬の勘違いだって自覚した後も怖くて怯えて、でもそんな夜中にわたしに声をかけてくれる人なんていなくて。
でも、この感覚から逃げ出したい、怖い、って思うけど、心のどこかでこの怖さを愛しいと思ってる自分もいるんです。
この怖さはただの夢で、わたしのあの一瞬の恐怖が何度も繰り返し再生されてる映像で、わたしはそこから逃げられないだけの、そんなつまんない夢で。
誰かに「あなたの後ろには誰もいないよ」って言われたら、わたしこの夢から覚めると思う。夜道で自転車を走らせることが怖くなくなると思う。
本当はもう怖くないんだと思います。言語化してこのブログに書けてる時点で自分の中で夢と現実の区切りはつけられてると思います。
でもまだ怖いって思うんです。思いたいんです。夢に現実が現れて、どんどん夢を現実が侵食して、わたしはみんなが歩いてる「なにもいないただの夜道」に出会うかもしれない。
わたしだけの怖くて愛しい特別な帰り道がなくなってしまう。怖いと思うのも逃げたいと思うのも本心だけど、なんの意図もなく偶然で作り上げられたわたしのこの恐怖は、紛れもなく奇跡だと思うんです。
もう少し、大事にしてあげてもいいかなぁ。
誰にも迷惑かけないし。
自転車で転んで怪我しないようにだけ気をつけたいですね。
欲しいもの
わたしは今月の2日に誕生日を迎え、めでたく二十歳になりました。
両親はそんなわたしに「ブランド物でも貴金属でもいいから、欲しいものなんでもあげる」と言いました。
でも別にこれといって欲しいものはありませんでした。
わたしはなんとなく「パスポートが欲しい」と言いました。
両親は笑って、「もっと一生使えるものにしなさい」って言いました。
わたしは今も欲しいものを決められていません。
ブランド物の価値はどこにあるんでしょうか。もちろん高いものには高い理由がある、それはわかるけど。
たぶん、その価値は、素材にあって、作りにあって、名前にあって、人にある。みんながそのブランドを認めてそこに価値を見出すから、ブランドはブランドでいられて、高い値段を付けられる。
じゃあ、わたしの価値ってなんだろう。
ブランドものを持てば、ブランド物の価値に紛れて自分も強くなれるんだと思う。だって高いアイシャドウをまぶたに乗せてる日は、すごい強くなった気がする。単純だから。
でも、それって別に私が強くなったわけでもなければ、私の強さでもないんですよね。
自分で確かにできない自分の輪郭を、アイテムの力を使ってハッキリさせようとして。でもそれって自分の輪郭をなぞったわけじゃなくて、自分をアイテムの輪郭に押し込んだだけなんじゃないかなと思ってしまうんです。
強さに必要なのって、しっかりした輪郭だと思います。輪郭を持ってないと、ちっちゃい石ぶつけられただけでグニャって凹んじゃうと思うので。
でも、わたしってもっと、ふにゃふにゃしてて、さらさらしてて、触ると崩れるし潰そうとすると変なしこりがあって、もっともっと面倒な生き物なんです、ブランドものが持てないくらいに面倒な生き物だと思うんです。
だからわたし、自分の証明書が欲しい。わたしの存在に輪郭を持たせてくれるものが欲しい。ブランド物も貴金属もわたしに型をくれるけど、わたしの輪郭はぼやけたまま。
なんか、わたしパスポートが欲しくなったんです。用途はそれだけではないけれど、異文化の全く知らない世界を見てみたかったんです。わたしの輪郭を作るための要素になるかなって思ったんです。別にパスポートが欲しかったわけじゃないんです。
二十歳になって、子供の頃を振り返ると、あの頃と比べて見えないものがあまりにも多いなと思ってしまいます。あの頃には絶対戻りたくないけれど、あの頃が消えていくのは自分が消えていくみたいで怖いです。
でも、あの頃に戻るためには今持っているものを全部投げ捨てなきゃならないんです、むむむ。
だから、わたしは誰に投げられた石にも歪められない輪郭が欲しいんです。
でも、人って流れて溜まってまた流れるもので、確実な輪郭なんて持てないんじゃないかなとか思ったりします。
「もっと一生使えるものにしなさい」
一生使えるものって、本当はなんなんだろう。
だから、わたしは今も欲しいものを決められていません。
成人しました
わたくし真木くるみ、このたび無事に成人式を終えることができました。
懐かしい友人に会って話して、中学時代に戻れる楽しい時間でした。
「成人おめでとう」
この「おめでとう」は、無事成人式という節目を迎えることができたことに対して、皆様言ってくださったんだろうなと私は思っております。この世に生まれてから成人式を迎えるまでの約20年間、大きな病気もせず大きな事故にも遭わず成長し続けられたこと、幸運と周りの人の助けがあったからに他なりません。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
「成人おめでとう」
「成人おめでとうございます」
私思うんですが、「成人」ってなんでしょうか。辞書を引けば適切な言葉が出てくるとは思うのですが、「成人」の定義も「大人」の定義も本当は人によって違う、その人の価値観によるものではないでしょうか。辞書も辞書を作った人のそれによるもので、辞書を鵜呑みにしたり、他人が作ってくれた定義に頼ったりするのは、自分の成長や大人という概念に関しての責任を放棄することにもなるんじゃないかなと思うことが、私はたまーーーにあります。
人を受け入れられるのが大人。
器が大きいのが大人。
社交辞令を使いこなせるのが大人。
誰かを許せるのが大人。
我慢ができるのが大人。
自分を抑制して場の空気を読むのが大人。
大人って言われる人の特徴って、たくさんありますよね。でも、これって本当に大人なんでしょうか?
その人の本心とか、あわよくばの気持ちとか、小さな希望とか、ただ諦めただけだったりとか、諦めただけだったりとか、諦めただけだったりとか。
「大人になるということは、心が死ぬことです」
と、ある人がおっしゃったことがあります。
しっくりくる言葉だなぁとも思います。
じゃあ、私の心は死んだんでしょうか。
小さい頃、森に入るだけで木々の声が聞こえた感覚も、水面に映る空を見て別の世界を想像するトキメキも、海に入った時に知らないものを探す好奇心も。
私、殺してないと思う、まだ。生きてると思う、まだ。
ただ、小さい頃に比べると、見なくてはならないものがあまりにも増えすぎて、迷子になってしまったんじゃないかなと思います。
くすぶっているだけ。
そばにいるってわかってる。
見えてないだけ。
本当は気付いてる。
じゃあ、見つけたらいいのに。
自分に対して思います。
小さい頃怒られながら練習した、おもちゃを集めて箱に押し込む、「お片づけ」みたいな感じで。
あの時、おやつが食べたくて頑張って片付けたおもちゃは、保育園に寄付したんです。だってもう使わないから。
私のこの気持ちもそのうちいらなくなって、どこかにいってしまうかもしれない。
でもそれは「死んだ」んじゃなくて「捨てた」んじゃないでしょうか。
出会うもの全てが特別でキラキラしてたあの時間のあの感覚、二度と手に入らないかもしれないものなのに。忘れてしまうんですよね、人は忘れる生き物だから。忘れるから捨てられるんですよね。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
「成人おめでとう」
「成人おめでとうございます」
まるで、社会に「大人になれ」って言われてるみたい。
私、いやだなぁ。
平成三十一年 元旦
あけましておめでとうございます。
平成三十一年元旦の真木くるみでございます。
これを機にブログを始めました。
昨年わたしは周りの方々に迷惑をかけてかけてかけまくり、恩返しもできないまま年を越してしまいました。いやー、申し訳ない。
クリスマスを過ぎた頃、今年はたくさん迷惑をかけたなぁ、年越しまでは何も起こさず平和に過ごしたいなぁ、注意して生活しよう、と思っていたのですが、仕事納めの日に階段から落ちて足を捻挫しました。問題がないときには事故を起こす、そんな平和に過ごせない女なんです、わたし。ほんといつもそう。
昨年を振り返ると、2018年は出会いの年だったなぁと思います。そして別れの年でもありました。
と、振り返ると思うんですが。思いはするんですが。
わたし、去年も同じこと思ってたわ。
って気づいたんですよね。
そこで思ったんですけど、出会いと別れって常にあるもので、何かをするたびにつきまとうもので、さらにいって仕舞えば、生きている間はずっと「時間」との出会いと別れの繰り返しじゃないかなって。このブログを書いてる時のわたしは1時50分にいますけど、すぐに1時51分になるし、わたしがこのブログを書いていた平成三十一年の元旦の1時50分は二度と戻ってこないし、出会いも別れも流動的なものだと思うんですよね。
あまりに多すぎるものだから、全部に一喜一憂なんてできないんです。わたしはその中で印象深いものを拾い上げて「たくさんの出会いと別れがあった」って言ってるだけなんですよね。
本当はその何千倍も何万倍も出会いも別れもあるんですよね。きっと全部奇跡だなぁ、見落としたくないなぁ、と平成三十一年元旦のわたしは昨年を振り返りながら思っています。
それもこれも、わたし、2018年に出会った方々皆さんに育てていただいたから思うことです。素晴らしい出会いをたくさん経験したから思えることです。
2018年は素敵な人や物事とたくさん出会えました。
素敵な人と出会えたり。素敵だと思っていた人が、素敵じゃない人になったり。意外な繋がりの人を見つけたり。大好きで大切な人と別れるという「出会い」をしたり。
18歳までは泣けなかったことを、19歳の昨年は泣くことができました。些細なことで泣くことができる、泣いてもいいと自分を許すことができる、そういう風に自分に甘くなった年でした。自分で自分の心を殺すことをやめて、感じることを感じるまま等身大に感情表現できるようになったのは、今周りにいる方々との出会いがあったからに他なりません。
そうしたら、苦しくて憎くて泣くことがなくなって、全部悲しいって泣けるようになったんです。昨年が後半に差し掛かる頃には、わたしは誰のことも恨まずに生きていけるようになっていたし、まっすぐな努力ができるようになっていました。
わたし単純な人間だから、そういう風にすぐ変われるんだなって、良くも悪くもではありますが。2018年はたまたま良かったんですね。でもそのたまたまはわたしが作ったものではなくて、周りの方々がそれぞれの価値観をわたしに分けてくださったから生まれたものなんです。ありがたいです、本当に。
昨年が始まったばかりの頃は、次の舞台が決まらない宙ぶらりんの状態でした。
でも夏あたりからトントン拍子に次が決まって、次が決まって、次が確定している中でたくさんの物事も同時進行して。
めまぐるしくて、でもすごく心地良いなと思いました。忙しさをこんなにも愛しいと思うことができるんですね。
わたし、2019年は愛のある人になりたいなって思うんです。何かを大切に思う気持ちって愛に収束するんじゃないかなって思うからです。今はそう思うけど、今年が終わる頃には変わっているかもしれません。
今のわたしは愛をそのまま受け止めることができないんです。どうしてもロジックを探してしまって。でもわたしは2018年の1年間で自分の感情を等身大で受け止めることができるようになりました。自分の感情にロジックを見つけられなくても悔し泣きをしないようになりました。きっと2019年には、愛を愛として認めてあげられる、そんな人間になれると思います。それを目標に日々を生きていきたいと思っております。
わたしは新年早々変な頭の中を長文でブログに投稿するような19歳ですが。
そんなわたしのことを今年もよろしくお願いいたします。
長々と読んでくださってありがとうございました。
🌸公演情報失礼します🌸
2019年の3/2と3/3にクォータースタジオにて公演があります!詩人の藤川みちる作品『Over The Flowers』の再演です。
わたし、真木くるみと新人の諸戸祐生(もろとゆうせい)ちゃんの二人芝居となっております。
【日時】
3/2 14:00〜 / 18:00〜
3/3 15:00〜 / 19:30〜
【料金】
一般前売り 1000円(当日+300円)
高校生以下 800円(当日+300円)
ペア割(2人で) 1600円 ※予約限定
トリプル割(3人で) 2100円 ※予約限定
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